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【レポート】黒川塾99 プレステと共に30年、吉田修平Night トークイベントへ潜入!!

【レポート】黒川塾99 プレステと共に30年、吉田修平Night トークイベントへ潜入!!

2月20日、エンターテインメント界の風雲児、黒川文雄氏主催の勉強会、黒川塾99が開催された。「ありがとう吉P! 吉田修平 Night 30年のゲーム人生の振り返り」と題し、元ソニー・インタラクティブエンタテインメントの吉田修平氏をゲスト迎え、氏がプロジェクト立ち上げ時から関わったプレイステーションの話題を中心に、初公開のエピソードも交えた面白トークで会場は盛り上がった。

ソニー入社前からゲーム好きだった

吉田修平氏はプレイステーションと共に30年歩んできたひと、として業界では著名な人物だ。話す姿はとても愛らしく、ソニー内外から多くのファンが参加するという凄いイベントとなった。

吉田氏はこどもの頃からゲームが好きで、六角形の鉛筆の面を削り、数字を書いて、転がした数字の組み合わせによって何かが起こるという独自のゲームを作ることも好きだったそうだ。
小学生の頃には、学校の机を彫って野球盤を作ってみんなで遊んでるところを教諭に叱られたというエピソードも披露していた。問題行動ではあるが、みんなに楽しんでもらいたいという気持ちが人一倍あったこどもであったことは間違いないだろう。

大学の就職活動でソニーを選んだ、その理由とは

こういう感じで愛されキャラだった吉田氏は、高校、大学と進学し、就職活動の時期となると、氏はある理由からソニーを選んだという。
ひとつはソニーがグローバル企業であることから、海外に勤務できるのではないかということ。

もうひとつは、MSXパソコンを発売していたこと。MSXとはファミコンと同じ年に発売された低価格パソコンで、基本的に遊ぶことしかできなかったファミンコンと違って、MSXはゲームも遊べるキーボード付きのゲーム開発機という位置付けだった。
ソニーのMSXはHitBitという愛称で、パナソニックのMSXと人気を二分するヒット商品。ゲームも多数発売されて、DOS/Vパソコンが一般家庭へ普及するまでのあいだ、ホームコンピューターの代表といえる存在だった。

このようなことから吉田氏は、将来的にゲーム機を開発するんじゃないかと思ったそうだ。

入社当時は任天堂のスーパーファミコン用CD-ROMを開発中

就職後、総合企画室に配属され、いろんな部署が抱えている新しい事業のタネを見つけて、それをサポートするという仕事を任されたそうだ。
ちょっと面白いエピソードとして、新人研修のことも話してくださった。ビデオカメラの営業もさせられたそうで、なんと一般家庭に、アポなしで、ビデオカメラ持参で訪問するという荒業だったとのこと。事業全体を見渡せる人材を育てようという意図だったのだろう、か。

吉田氏の入社当時は、プレイステーションの生みの親、久夛良木健氏が任天堂のスーパーファミコン用のCD-ROMドライブを共同開発していたそうで、同じ部署の担当者を通じて意見をしていたそうだ。
残念ながらこのCD-ROMドライブは発売に至らなかったが、形を変えて大ヒット商品となった。

これは有名な話だが、プレイステーションは元々任天堂のスーパーファミコン用CD-ROMから開発が始まっている。共同開発していたこのプレイステーションは頓挫し、ソニー単独のゲーム機へと進化する。
この話を吉田氏は、「ある意味任天堂に助けてもらった」と表現した。

久夛良木さんは嘘つきだと思った

吉田氏はのちにプレイステーションの父と呼ばれる徳中暉久氏の紹介で久夛良木氏と出会い、プレイステーション構想をここで初めて聞くことになる。性能や価格帯を聞いて、久夛良木さんは嘘つきだと思ったそうだ。

プレイステーションといえば3Dグラフィックスを扱えるゲーム機。当時の3Dグラフィックスといえば1,000万円近いコンピューターで動くというのが常識で、ポリゴン数を減らしたとしても家庭用ゲーム機の価格帯と呼べる販売価格を実現するのは不可能だと誰もが思ったはずだ。

しかし吉田氏はプロジェクトに参加することになる。
徳中氏に感想と伝えたところ「俺は久夛良木を信じる」と返されたことが決意に繋がったのだそう。
エンジニアではないゲームに詳しいひとが中に入ることで、プレイステーション構想は完成する、そう思ったようだ。
プレイヤーにとっては当たり前のことも、エンジニアにとっては非常識。こういうことは確かにありえる。

そして不可能と思われる開発には多額の資金が必要。久夛良木さんは偉いひとを口説くのが上手いそうで、過去には任天堂スーパーファミコン向け音声チップを少人数で開発して大きな利益を生んだそうだ。こういった実績からプレイステーションの開発にも希望を感じた役員が応援してくれたとのこと。
役員を説得できるひとを「悪代官」と呼ぶのだそうで、久夛良木氏もそのひとりだったそうだ。

プレイステーションの大ヒットプロデューサー

プレイステーション初期のヒット作のプロデューサーに吉田氏は抜擢される。
ちょっとびっくりしたのだが、他のメーカーからの前評判はセガのサターンのほうが良かったのだそう。
ソニーは家電メーカーで、セガはゲーム会社。確かにそう思うのも不思議ではない。

しかしこういった状況が吉田氏のモチベーションへと繋がったのだそう。「成功させればずっとゲームの仕事を続けられる」。

吉田氏がプロデュースした初期のヒット作は、「クラッシュ・バンディクー」、「グランツーリスモ」、「サルゲッチュ」などで、クラッシュ・バンディクーはローカライズのプロデューサーで参加したということながら、その内容を聞いていたら、ゲームそのものの印象が大きく変わるものだった。

そして時代はプレイステーション2、プレイステーション3へ

プレイステーションの成功からしばらくして、クリエイターの要求レベルも高くなって、次世代機となるプレイステーション2へ移行する決定をしたのだそう。

プレイステーション2は安価なDVDプレイヤーとしても市場に受け入れられて継続して大ヒットとなったが、その頃の吉田氏はアメリカ勤務。

そしてプレイステーション3が発売される、、最初の1、2年は「本当にやばい」と思ったのだそう。増大したハードの開発費。久夛良木氏は「この額は間違っている」と言って信じていなかったとのこと。

サードパーティーのプレイステーション3向けタイトルも当初ほとんどなく、開発が容易だったマイクロソフトのXbox 360向けタイトルの移植も難易度が高かった、と吉田氏。

そんな中、同じソニー製品のテレビ、WEGA(ベガ)シリーズが大ヒット。プレイステーション3の赤字を補填してくれたのだそうだ。

これから何をやりたいですか?

トークも終盤にさしかかると、黒川氏は「これから何をやりますか?」というコーナーに移る。

吉田氏は「これまでソニーの立場で仕事をしてきた尊敬すべきインディーパブリッシャー、デベロッパーさんたちのアドバイザーをさせていただいてます。めちゃくちゃ楽しいですよ。」

「任天堂さんの本社には行ったことないんですよ。一度訪問したい。」なんていうコメントも飛び出してソニーから離れたことでできることが増えて楽しんでいらっしゃるようだ。

任天堂でインディーゲームを担当している副島氏とはソニー在籍時から仲が良いとのことで「インディーゲームを盛り上げたい」という想いが企業の垣根を超えて、我々プレイヤーにも届いているのだろう。
Steamも含め、確かにインディーゲームは熱い。

会場に集まった吉田ファンの盛り上がりからして、これからの吉田氏にもみなさん、そして我々も期待せずにはいられないだろう。

膨大な開発費をかけたゲームも好きだが、全体の工程を見やすいインディーゲームはゲーム作りの基本。
筆者も大好きだったりする。

TEXT いしかわ まさゆき(きっ舎)

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