
【レポート】黒川塾(百)100 セガ 体感ゲームの時代、激アツトークイベントへ潜入!!

5月15日、エンターテインメント界の風雲児、黒川文雄氏主催の勉強会、黒川塾(百)100が開催された。氏はゲーム関連の執筆者(ゲーム考古学者)としても活躍しており、先日発売されたばかりの著書「セガ 体感ゲームの時代 1985 – 1990(東京ニュース通信社刊)」の出版記念トークショーも兼ねた勉強会となった。ちなみに黒川塾は2012年の開催から13年目を迎える。
1980年代、昭和のセガといえば体感ゲーム

本記事は「セガ 体感ゲームの時代 1985 – 1990」を読んでいただくとより楽しめると思うのでお勧めしたい。
今回のゲスト数は黒川塾史上初の最大7名ということで、ステージ上の密度がスゴいことになっていた。自己紹介の順番で各ゲストを紹介しよう。
トップバッターは1985年入社の麻生宏氏。アーケードゲームの企画とディレクションを担当し、その後コンシューマーゲームへ移り、シェンムーを担当したとのこと。
続いては西川正次氏。麻生氏と同じく1985年入社。ICチップの設計部隊に配属され、体感ゲーム、メガドライブ、ドリームキャストと担当。セガハードの歴史を長く体験している貴重な人材のおひとりだ。当時小さな3DチップメーカーだったNVIDIAとの付き合いからヘッドハンティングされたという経歴もあるという。
三人目のゲストは一番の年長者で、「セガ 体感ゲームの時代 1985 – 1990」の執筆ではキーマンとなったという山田順久氏。黒川氏によると「山田氏が次々と関係者を紹介してくださったおかげで書籍化できた」ということだ。セガへ入社した年度は1969年。アミューズメントの設計を担当。スペースハリアーをキッカケにコンシューマーへ移動して2001年退社。貴重な人材だ。
続いて四人目のゲストは、セガの音楽といえばこのひと。Hiro師匠こと川口博史氏。1984年入社。今回のゲストで唯一の現役社員。
五人目のゲストは松野雅樹氏。1985年入社。入社直後から体感ゲーム機を中心に設計を担当。ハングオンなどの難しい設計を担当してきたという。何かトラブルがあればソフト側なのかハード側なのか、検証に次ぐ検証のバトルがあったようだ。
六人目のゲストは三船敏氏。1985年入社。プログラマーで入社したところ、企画にも参加したということで、会場では若い頃の体感ゲームプレイ写真も披露してくださった。ゲームの腕前も上級者だったようだ。
そして七人目のゲスト。濱垣博志氏。今回のゲストの中で唯一他社からセガへ出向してきていて、他のゲーム会社へ移りセガへ戻ってくるという、変わった経歴をお持ちだ。バイクレースの体感ゲームであるハングオンは元々の企画ではバイクではなかった、という衝撃的なお話も出てきて、そのあたりも話してくださった。
ハングオンの衝撃

1985年、ゲームセンターに異色の体感ゲームが登場した。筆者は団塊ジュニア世代で、当時小学校5年生。ゲームセンターに出入りしていたこともあって、リアルタイムにプレイできた。体格的に中学生以上が対象で難儀したが、オールクリアは達成できずともまたプレイしたいという、こどもの射倖心も刺激するゲームのひとつだった。
1PLAYの料金は200円。グラディウスや魔界村が50円から100円の時代。体感ゲームは憧れだったが、この高額なプレイ料金にも関わらず、いつも誰かがプレイしているという印象だ。
今回のトークショーでもその話が出ていたので、設置店はかなり儲かっただろう。
ハングオンはセガが発売したバイクレースの体感ゲームだが、濱垣氏によると、実はコアランドテクノロジー(注)が持ち込んだ企画で、最初はフィットネスバイクを組み合わせたゲームを考えていたそうだ。当時コアランドテクノロジーから出向していた濱垣氏は「バイクのほうが良いのではないか」と進言したそうで、セガの開発者たちもバイクゲームに理解があったのかそのまま企画が進展したとのこと。
もしこの進言が無かったら、その後の体感ゲームは発売されなかったかも知れない。
当時のゲームセンターでは健康を意識したプレイヤーなぞ見かけた記憶がない。タバコも喫煙OKだったし、不良も多く、血に飢えていた時代だったからだ。
(注)コアランドテクノロジーとはのちのバンプレスト
バイクの色は黄色だった

ハングオンといえば赤いバイクだが、開発当初は黄色だったそうだ。山田氏によると、このデザインは漫画「AKIRA」に登場する金田のバイクを強く意識していたということで、赤色へ変更したことは自然な流れだ。1985年当時はバイクブームだったこともあって多くのバイクを見かけたが、全体が黄色いバイクはほぼ見かけた記憶がない。現実感のあるカラーリングはプレイ中もイカして見えるので、女性のギャラリーもよく見かけたものだ。
しかし現実感があるとはいっても、プレイ画面がバイクと一体になっていることで近未来感がある。未来の乗り物だ。令和の時代ではスピードメーターが液晶モニターというのも見かけるが、1985年は昭和。 ブラウン管モニターを搭載しているなんて普通では無かった。だがそれがイカしていた(当時の昭和的表現)。
また、山田氏の話によると、業界初の試みがもうひとつあった。
コインボックス(金庫)の高さだ。ハングオンは体感ゲーム筐体ということで、プレイヤーは筐体に跨ったままコインを投入したい。しかし当時のコインボックスといえば、高さが低いものしか用意されていなかったようだ。「しゃがめば投入できるでしょう」なんていう意見もあったようだが、山田氏はそれではダメだと思ったとのことで、提案したそうだ。当時のゲームセンターでは、「財布の中の100円玉が無くなるまで連続プレイ」というのも当たり前だったので、コインボックスが巨大化したことのメリットで回収の頻度も減って従業員も助かったはずだ。
ゲームセンターにハングオンが登場した冬にはスペースハリアーが登場。操作系が戦闘機のようでこれもインパクトがあった。
セガのゲーム音楽といえばこのひと

セガのゲームファンでは有名な話だが、HIro師匠こと川口博史氏がゲーム音楽をデビューした作品がハングオンだそうだ。Hiro師匠はプログラマーとして採用されながらもゲームデザイナーの鈴木裕氏にスカウトされて音楽を担当したとのこと。鈴木裕氏といえばバーチャファイターなどの3Dゲームでも有名だが、体感ゲームでも数多くの作品をデザインしている。当時の師匠はバンドもやっていたそうで、それを耳にした鈴木氏が声をかけてきたのだそうだ。
師匠の楽曲の特徴はいくつかあるが、共通するものは「カッコよさ」。ドライブミュージックからヒーローソングまで、どれもカッコいい。
ゲームがヒットすると、、
ハングオンはプレイ料金が高いにもかかわらず大ヒット。この大ヒットでセガから独立するスタッフが出てしまったそうで、そのあたりもトークショーでは語られた。
そのスタッフたちは他社(コナミ)からカーレースゲーム「WECル・マン24」を発売する。その開発会社はテクノスター、セガから独立したスタッフによって設立したものだった。
業界内では才能の争奪戦が激しかったようだ。
同時期にゲーム開発をしていた他者の話を思い出す。ストリートファイターIIのプロデューサー、岡本吉起氏とお会いした際にもこの手の話をお聞きした。スタッフロールなどでペンネームみたいなものを用いていた理由のひとつが引き抜き防止策だったそうだ。
ゲームの歴史をたどると、数少ない天才が現在のゲームの基礎を作ったことを証明している。
アウトランがさらなるヒット

ハングオンが大ヒットして、セガが次に大ヒットさせた体感ゲームがアウトランだ。トークショーではハングオン、スペースハリアー、そしてアウトランが紹介された。時間の都合からか体感ゲーム第三弾のエンデューロレーサーが語られなかったのは少し残念だが、アウトランの登場は衝撃すぎたので仕方ないだろう。
開発秘話として、ゲーム内に残るわかりやすいエピソードを聞けた。開発にあたりコンビを組んでいた鈴木裕氏と石井洋児氏はヨーロッパへロケハン旅行をしたそうだ。ロケハンの候補地は他の地方もあったそうだが、ヨーロッパのイメージがマッチしていたようだ。鈴木氏と石井氏は共にこだわり派のようで、それぞれが行きたい場所を譲れず、現地で用意されたレンタカーは1台しかなく、鈴木氏は電車を使うことにしたという。出発から2日後に著名な駅で待ち合わせしたが、駅が広すぎてなかなか会えず。このエピソードを読んでピンとくる読者もいるだろう。アウトランのコース選択システムは、このふたりのエピソードが元になったのではないか、とゲストのみなさまは話していた。アウトランは決められたコースを走るのではなく、次のコースを選択できるのも他のドライブゲームとは違っている。やり込み要素にも繋がる、画期的なシステムだ。
鈴木裕氏との思い出

鈴木氏との思い出を語ってくれたゲストは数名いたが、中でも思い出深いゲストのトークを紹介したい。まずはとにかく「熱心」だと語ってくださったのが三船氏だ。ハングオンのテストプレイヤーも経験したという三船氏は、「色んなことも教えてくれました」と懐かしむ反面、仕様変更をお願いされる際には仕様書もなかったそうだ。
スペースハリアーの思い出を語ってくださったのが麻生氏。企画の始まりはゲームタイトルにもあるハリアー、戦闘機を操るゲームだったのだそう。スペースハリアーは武器を持った戦闘員(主人公)を操るゲームながら、あの独特な動きは気になっていた。垂直上昇するハリアーが動きのもとになったというなら納得だ。
これを進言したのが鈴木氏だと麻生氏はいう。鈴木氏は「ひとでやりたい。売れなかったら給料はいらないからやらせて欲しい。」と上層部に掛け合ったそうだ。
こういう熱いエピソードを聞いたあと、Hiro師匠も自らのエピソードを語ってくれたが、それはまるで逆だった。鈴木裕氏が関わったハングオンでゲーム音楽デビューしたHiro師匠は、同じく鈴木氏が関わったスペースハリアーの楽曲も任されることになる。
スペースハリアーをプレイしたかたはわかると思うが、ネバーエンディング・ストーリーを思い浮かべるかたも多いかと思われる。なんとなく共通した世界観がある。Hiro師匠によると「(映画の)ネバーエンディング・ストーリー」みたいな曲を作って欲しいと依頼があったそうだが、それ以外には好きにやっていても文句はなかったそうで、没になった曲はあったというが、鈴木氏の「一度任せたらそのクリエイターをとことん信頼する」という信念が伝わってきた。この想いが大ヒットに繋がったのだろう。
常に最新技術は2研から
セガといえば複数のチームがそれぞれ競っているイメージが強いと感じる読者も多いことだろう。実際にそうだったようだが、2研ことAM2研は最新技術の開発に余念がなかったそうだ。これはソフト面だけではなく、それを支えるハードも同じく。松野氏によると、ゲーム画面の色設定にも鈴木氏のこだわりが反映されたのだそう。たとえばモニターの発色。モニターの白色が青みがかって見えるほどに設定したそうで、専門的にいうと色温度を極端に高くするのだ。これを2研セッティングと呼んでいたらしい。プレイヤーがゲームへのめり込む仕掛けがこのようなモニターセッティングにもあったとは驚く。
続いて西川氏。基板の開発をしていた氏によると、グラフィックス性能を倍にして欲しいという要求を解決する話が印象深かった。開発初期のボードは畳二畳分ほどの大きさで、開発が進むにつれて麻雀卓サイズになって、筐体に収まるサイズにまでするのだそうだ。これはチップ開発の進化が今よりも凄まじい時代だったということだ。性能面では令和のグラフィックチップのほうが圧倒的に凄いが、進化という面では昭和、平成の時代のほうが激しかったのはいうまでもないが、畳二畳分から筐体に収まるサイズになるとは驚く。
しかしこのような激しい進化を遂げる時代は、何かトラブルがあった際にソフトとハードのどちらに問題があるのか。これを検証することが大変だったとのこと。
現在のゲーム市場に足りないものは何か?

Hiro師匠曰く「プリクラ」以降、アーケードゲームに新しいジャンルが生まれていない。「音ゲーもあるじゃねーか」と仰る読者もいらっしゃるかと思いますが、調べた限りではプレイステーションのパラッパラッパーが元祖で、その後、アーケードゲームでビートマニアが発売されるという。
現在のゲームセンターの主力機種はクレーンゲーム、コインゲームなどで、これらは自宅では体験できない。それもあってHiro師匠のこの発言はとても重い。
もしかしたらアイデアが出尽くした可能性も否定できないが、チャレンジ精神とそれを理解してくれる経営者の存在が問われているのではないだろうか。
黒川塾には今後も注目です。
TEXT いしかわ まさゆき(きっ舎)
PHOTO Kei Sakuhara
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